現代は激動の時代である。
21世紀は不幸なことにアメリカの同時多発テロで幕が開いてイラク戦争へと続き、さらに日本では東日本大震災に見舞われて福島第一原発でメルトダウンという深刻な事態が引き起こされてしまった。それが遅々として解決しないまま、世界はコロナ・パンデミックに直面し、世界のいたる所で過酷な「コロナ・トリアージ」が実施され、実際に日本でも「命の選別」が行われてしまった。そこへもってウクライナ戦争の勃発である。21世紀は「人権の世紀」と言われながら、他方でこれらの人災や天災によって「人権侵害」も顕著になっている。戦争は内戦を含めてその最たるものであろう。こうした人災によって生み出される難民にこそ分け隔てなく「人権」を適用して救済がはかられなければならないにもかかわらず、欧米諸国の対応は現実には必ずしもそうなってはいない。すなわち、「ダブルスタンダード」である。シリア難民とウクライナ難民とに対する対応の差がそれを雄弁に物語っている。それは「人権」概念が含意する普遍性を自ら掘り崩すものにほかならない。日本の場合にはさらに、名古屋入管事件なども同様の観点から分析されなければならないであろう。「人権の世紀」の実現はまだ遠い先だと言わざるを得ない。
その一方でまた、先端科学技術や先端医療技術の急速な進展も大きな問題を引き起こし始めている。したがって「イノベーション」に関しても、以前ほど楽天的に語られることはなくなった。少し前までは「イノベーション」こそが社会問題を解決できると強調された。例えば、「第5期科学技術基本計画」がその典型である。しかし今や、「イノベーション」そのものが深刻な社会問題を引き起こしているのである。こうした事態に焦点が当てられて、「イノベーション」に自己反省的な次元を繰り込んだ「Responsible Innovation」や「Transformative Innovation」のコンセプトが重視されるようになった。現在問題になっている「ChatGPT」のことなどを思い起こせば十分であろう。
それゆえに、以上のような時代状況の激変のただ中にあって今日私たちが否応なく直面しているのは、根源的な社会的価値に関する問いにほかならない。それは、「何が社会を新たな統合へともたらすのか」という差し迫った問いであり、「現代社会において統合の新たな理念はそもそも何であるのか」という規範的な問いである。この理念は先端科学技術や先端医療技術を社会に受容(場合によっては拒否)したりする場面で一つの規範的基準としても機能すると同時に、社会の多元主義化と民主主義化に資する構想でもなければならない。そこで私たちは、この理念を「尊厳」概念に見定め、それを社会のさまざまな場面で具体化してゆく。そのために、現在さまざまな学問領域で行われている個別的な「尊厳」概念研究を統合して、それを「尊厳学」という一つの学問領域に仕上げてゆきたい。そこでは、哲学的価値論を洗練して「尊厳学」の方法論を確立したり、「被造物の尊厳」や「生命の尊厳」を繰り込んだ「尊厳」の概念史を再構築したり、各国憲法や国際法などの「尊厳」規定を分析したり、前述の「人権」と「人間の尊厳」概念との基礎づけ関係を問い直したり、福祉や介護・看護・教育などの現場に「尊厳」の尊重をどのように組み込むことができるのかを提案したり、さらに同じく前述した先端科学技術や先端医療技術を社会に受容する場面で「尊厳」概念を規範としていかに機能させることができるのかを「尊厳の毀損」の観点から問い直しながら、人文学・社会科学・自然科学の各分野ですでに優れた研究業績を上げている研究者と、さらに優秀な若手研究者と共に、「尊厳」概念を総合的かつ多角的に考察してゆく。その上でこれらの研究成果を社会実装する各種教育プログラム(学校教育・市民教育・防災教育・介護教育などを含む)も提供して社会に還元すると同時に、「人権」およびそれを基礎づける「人間の尊厳」が真に普遍的に機能できるための社会的提言にも前向きに取り組む予定である。
私たちの研究では、欧米圏の議論だけでなく、非欧米圏の議論も積極的に取り上げ、両者の議論を統合することを通して、「尊厳」に真に「普遍的」な内実を付与して「尊厳」を真に「普遍的」な価値概念に鍛え上げてゆくつもりであり、そこに日本から「尊厳学」を発信してゆく意義も見出されるのではないかと思う。
代表 加藤泰史